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第7話  知らないままではいられない

last update publish date: 2026-09-19 19:00:42

「五年前、お前は何を見た?」

電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。

「なぜ、証拠を隠した?」

答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。

五年前。

その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。

あの日の雨。

濡れた道路。

黒崎誠一の会社の裏口。

そして、開いたままになっていたドア。

蓮は目を閉じた。

忘れたことなど、一度もなかった。

ただ、忘れたふりをしていただけだ。

「……今さら、何が出てきたんだ」

独り言のように呟く。

高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。

ただ、新しい証拠が見つかったこと。

そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。

最後に、高瀬はこう言った。

「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」

通話が切れる。

蓮はしばらく画面を見つめていた。

頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。

美咲の顔だった。

笑った顔。

少し困ったように首を傾げる仕草。

そして、最後に会った日の言葉。

──私が傷つくかどうかは、私が決めることじゃないですか?

「……美咲」

名前を口にした瞬間、胸が痛んだ。

距離を置けば、彼女を守れると思っていた。

自分から離れれば、事件に巻き込まれることもない。

それが一番いいと思っていた。

けれど。

本当にそれだけなのだろうか。

自分が怖いだけではないのか。

美咲に本当のことを知られることが。

自分がどんな人間だったのかを知られることが。

「……俺は、何から逃げてるんだ」

答えは出なかった。

一方、美咲は仕事をしていた。

パソコンの画面に向かいながら、何度も同じ文章を読み返す。

集中しなければいけない。

今日は締め切り前の原稿確認がある。

わかっている。

それなのに、頭の中には別のことばかり浮かんでくる。

蓮から連絡が来なくなって、数日。

以前なら、仕事が忙しいのだろうと思えた。

でも今は違う。

最後に会ったときの彼の表情が、何度も思い出される。

──しばらく、会わないほうがいいと思っています。

理由を聞いても、彼は答えなかった。

「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」

あの言葉が、妙に引っかかっていた。

どうして、そこまで言うのだろう。

何を抱えているのだろう。

美咲はスマートフォンを手に取った。

蓮とのメッセージ画面を開く。

最後のやり取りを眺めた。

『今日はありがとうございました』

その短い文章が、一番下に残っている。

指が動きかける。

『大丈夫ですか?』

入力して、止まった。

送っていいのだろうか。

今は会わないほうがいいと言われたばかりだ。

それでも、何も聞かずに離れているのも違う気がした。

美咲はしばらく迷ったあと、画面を閉じた。

「……私、何をしてるんだろう」

小さく呟く。

好きになり始めた人が、自分から離れようとしている。

理由は教えてくれない。

それなのに、自分だけがその人のことを考えている。

少しだけ苦しかった。

けれど、それ以上に気になっていた。

蓮は、何かから逃げている。

そんな気がしてならなかった。

その日の帰り道。

美咲は駅へ向かって歩いていた。

ふと、以前蓮と歩いた道が目に入る。

雨の日、黒い傘の下で並んで歩いた道。

あの日から、まだそれほど時間は経っていない。

なのに、ずいぶん遠い昔のことのように感じた。

信号が赤になり、美咲は足を止める。

そのときだった。

「……水城さん?」

聞き覚えのない男性の声がした。

振り返る。

三十代くらいの男性が、少し離れたところに立っていた。

美咲は知らない顔だった。

「はい?」

「すみません。人違いでした」

男性はそう言って、すぐに歩き去っていく。

美咲はしばらくその背中を見つめた。

気のせいだったのだろうか。

自分の名前を呼ばれたような気がした。

けれど、相手は人違いだと言った。

「……変なの」

そう呟いて、歩き出す。

その出来事を、たいしたことだとは思わなかった。

ただ。

少しだけ、不安が残った。

夜。

蓮は一人で部屋にいた。

机の上には、五年前の事件についてまとめた資料が置かれている。

もう何度も見た資料だった。

黒崎誠一くろさきせいいち

黒崎グループ社長。

五年前、会社近くの倉庫で遺体となって発見された。

事件当時、現場付近にいた人物として名前が挙がったのが、桐谷蓮。

世間から見れば、十分すぎるほど怪しい人物だった。

そして蓮自身も、その疑いを完全に否定できる立場ではなかった。

あの日、自分は現場にいた。

その後、証拠を隠した。

警察にも本当のことを話さなかった。

それだけは事実だった。

だからこそ、殺してはいないという言葉だけを並べて、自分を正当化する気にはなれなかった。

「……美咲には、何も関係ない」

以前、そう言った。

それは本心だった。

だからこそ、離れた。

けれど。

美咲が自分から遠ざかるのを見て、胸が痛む。

勝手な話だと思った。

自分から離れたくせに、彼女に忘れてほしくないと思っている。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

画面には、知らない番号。

蓮は一瞬ためらってから、電話に出た。

「……もしもし」

返事はない。

数秒の沈黙。

やがて、低い声が聞こえた。

「余計なことをするな」

蓮の表情が変わった。

「誰だ」

「五年前のことを掘り返せば、今度はあの女も無事では済まない」

「……美咲に手を出すな」

声が低くなる。

「なら、何もするな」

通話はそこで切れた。

蓮はスマートフォンを握ったまま動かなかった。

やはり、終わっていない。

五年前の事件は。

自分が逃げ続けてきた過去は。

まだ、自分だけの問題ではなかった。

「……だから、離れたんだ」

呟く。

それでも、胸の中に別の思いが生まれていた。

逃げるだけでは、何も終わらない。

高瀬の言葉が蘇る。

──今度こそ逃げるな。

蓮は机の上の資料を見た。

そして、静かに息を吐く。

「……会わないといけない」

誰と。

何のために。

自分でも、まだ整理できていなかった。

ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

五年前から逃げ続けてきた自分は、もう以前と同じではいられない。

そして。

美咲を遠ざけるだけでは、彼女を守れないのかもしれない。

蓮は資料を閉じた。

窓の外では、雨が降り始めていた。

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