LOGIN「五年前、お前は何を見た?」
電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。 笑った顔。 少し困ったように首を傾げる仕草。 そして、最後に会った日の言葉。 ──私が傷つくかどうかは、私が決めることじゃないですか? 「……美咲」 名前を口にした瞬間、胸が痛んだ。 距離を置けば、彼女を守れると思っていた。 自分から離れれば、事件に巻き込まれることもない。 それが一番いいと思っていた。 けれど。 本当にそれだけなのだろうか。 自分が怖いだけではないのか。 美咲に本当のことを知られることが。 自分がどんな人間だったのかを知られることが。 「……俺は、何から逃げてるんだ」 答えは出なかった。 一方、美咲は仕事をしていた。 パソコンの画面に向かいながら、何度も同じ文章を読み返す。 集中しなければいけない。 今日は締め切り前の原稿確認がある。 わかっている。 それなのに、頭の中には別のことばかり浮かんでくる。 蓮から連絡が来なくなって、数日。 以前なら、仕事が忙しいのだろうと思えた。 でも今は違う。 最後に会ったときの彼の表情が、何度も思い出される。 ──しばらく、会わないほうがいいと思っています。 理由を聞いても、彼は答えなかった。 「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」 あの言葉が、妙に引っかかっていた。 どうして、そこまで言うのだろう。 何を抱えているのだろう。 美咲はスマートフォンを手に取った。 蓮とのメッセージ画面を開く。 最後のやり取りを眺めた。 『今日はありがとうございました』 その短い文章が、一番下に残っている。 指が動きかける。 『大丈夫ですか?』 入力して、止まった。 送っていいのだろうか。 今は会わないほうがいいと言われたばかりだ。 それでも、何も聞かずに離れているのも違う気がした。 美咲はしばらく迷ったあと、画面を閉じた。 「……私、何をしてるんだろう」 小さく呟く。 好きになり始めた人が、自分から離れようとしている。 理由は教えてくれない。 それなのに、自分だけがその人のことを考えている。 少しだけ苦しかった。 けれど、それ以上に気になっていた。 蓮は、何かから逃げている。 そんな気がしてならなかった。 その日の帰り道。 美咲は駅へ向かって歩いていた。 ふと、以前蓮と歩いた道が目に入る。 雨の日、黒い傘の下で並んで歩いた道。 あの日から、まだそれほど時間は経っていない。 なのに、ずいぶん遠い昔のことのように感じた。 信号が赤になり、美咲は足を止める。 そのときだった。 「……水城さん?」 聞き覚えのない男性の声がした。 振り返る。 三十代くらいの男性が、少し離れたところに立っていた。 美咲は知らない顔だった。 「はい?」 「すみません。人違いでした」 男性はそう言って、すぐに歩き去っていく。 美咲はしばらくその背中を見つめた。 気のせいだったのだろうか。 自分の名前を呼ばれたような気がした。 けれど、相手は人違いだと言った。 「……変なの」 そう呟いて、歩き出す。 その出来事を、たいしたことだとは思わなかった。 ただ。 少しだけ、不安が残った。 夜。 蓮は一人で部屋にいた。 机の上には、五年前の事件についてまとめた資料が置かれている。 もう何度も見た資料だった。美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。画面には、あのメッセージが残っている。『蓮のことを忘れてください』短い文章だった。それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。誰が送ってきたのか。どうして自分のことを知っているのか。そして何より。どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。最後に会った日のことを思い出す。「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。何かを恐れていた。美咲には、そう見えた。「……やっぱり、何かあるんだ」今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。過去には誰にだって触れられたくない部分がある。自分にもある。だから、待つつもりだった。いつか蓮が話してくれるまで。けれど。もう「待っているだけ」ではいられなかった。知らないところで、自分にまで警告が届いた。それはもう、蓮一人の問題ではない。美咲はスマートフォンを置いた。そして、ノートパソコンを開いた。
翌朝。美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。駅で声をかけてきた男性。水城さん、と呼ばれた気がした。けれど、本人は人違いだと言っていた。「……気にしすぎかな」そう呟いて、ベッドから起き上がる。スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。当然だ。会わないほうがいいと言われたのだから。それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。美咲は小さく息を吐いた。「私、こんなに寂しがりだったっけ」自分で言って、少しだけ笑う。蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。それで十分だった。けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。それが少し怖かった。会社に着くと、いつものように仕事が始まった。原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。そう思っていた。けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。何も届いていない。
「五年前、お前は何を見た?」 電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。
週が明けた。美咲はいつも通り出社した。けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。蓮から連絡が来ない。昨日も、その前の日も。これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。《今日は遅くなりそうです》《ちゃんと帰れましたか?》そんな何気ない言葉だった。それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。「……何を期待してるんだろう」自分に呆れながら、画面を伏せる。仕事に集中しよう。そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。昼休みになっても、通知はなかった。美咲は小さく息を吐いた。忙しいのかもしれない。そう思えばいい。それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。その日の夜。仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。画面には、蓮の名前。美咲の胸が跳ねる。《少し会えませんか》短いメッセージだった。《今からでも大丈夫です》すぐに返信する。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。
翌朝。美咲はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。蓮と話した。それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。好きな本の話をした。休日の過ごし方を聞いた。くだらない話で笑った。たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。スマートフォンを手に取る。蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。「……私、いつからこんなになったんだろう」まだ恋人ですらない。それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思っている。だからこそ、美咲は少し怖かった。また誰かを好きになってしまうことが。その日の昼休み。美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。画面を見る。蓮からだった。《今日、仕事は遅くなりますか?》思わず頬が緩む。《たぶん七時くらいです》すぐに返信が来た。《もしよければ、夕食でもどうですか》美咲は数秒、画面を見つめた。
翌週の土曜日。美咲は久しぶりに、仕事のことを考えない朝を迎えていた。カーテンを開けると、薄い雲が広がっている。雨は降っていない。けれど、天気予報では午後から雨になるらしい。「傘、持っていこう」昨日のことを思い出して、少しだけ笑う。あの日以来、雨を見ると蓮のことを思い出すようになっていた。自分でも単純だと思う。けれど、それが嫌ではなかった。昼前。美咲は駅近くの小さな喫茶店で、仕事用の資料を読んでいた。休日くらい仕事から離れたいと思っていたのに、担当作家から修正原稿が届いてしまったのだ。「あと少しだけ……」そう呟いてページをめくる。すると、入口のドアが開いた。反射的に顔を上げる。「……蓮さん」まただった。蓮は美咲に気づくと、少し驚いた顔をした。「水城さん」「こんにちは」「こんにちは」蓮は店内を見回した。「一人ですか?」「はい。仕事を少し」「休日なのに大変ですね」「蓮さんも?」「僕は買い物の途中です」







